「『撫順』から未来を語る 撫順・瀋陽・ソウル」旅行記 第2回報告
たいへん遅くなってしまいましたが,撫順,瀋陽,ソウルをめぐる6日間の旅行報告の第2回をお届けします。
平頂山惨案85周年国際学術シンポジウムについて
【シンポジウムの概要】
2017年9月15日午前10時30分から,第13回平頂山事件国際学術シンポジウム(主催:撫順市社会科学院,撫順平頂山惨案紀念館,平頂山事件弁護団,平頂山事件訴訟の勝利をめざす実行委員会)が,中国遼寧省撫順の平頂山惨案紀念館会議室にて開催されました。
シンポジウムには,主催団体関係者に加えて,中国側からは撫順市の市政府や共産党関係者,撫順戦犯管理所の関係者,歴史研究者など,日本側からは労働組合や市民団体関係者,歴史研究者などが参加しました。
周学良平頂山惨案紀念館館長の開会挨拶の後に,報告及び討論に入りました。
報告者は,中国側が7名,日本側が3名でした。
【王平魯 撫順市社会科学院副院長の報告】
最初の報告者は,王平魯撫順市社会科学院副院長(中国)でした。
王副院長は,平頂山事件の事実とともに,その解決に向けた日中間の市民の長年にわたる共同行動が日中両国の市民に必ずしも十分に知られていないこと,平頂山事件の被害者(幸存者)が亡くなる中で,事件とともに共同行動の取り組みのことも次世代に継承していくことが重要であるとの指摘がありました。
【佟達 元平頂山惨案紀念館館長の報告】
次に,元平頂山惨案紀念館館長の佟達氏(中国)から発言がありました。
佟達氏は,平頂山事件訴訟において事実認定されたことの意義を強調した上で,その意義を日中両国で継承していくことの重要性を指摘しました。
また,関東軍司令部の事件への関与の有無など平頂山事件には未解明な論点があることから,さらに歴史研究を進展させることが重要であること,そのためには,例えば加害兵士の手記などさらなる歴史資料の発掘が必要であるということを述べました。
さらに,南京事件は歴史記憶遺産に登録されているが,平頂山事件も南京の歴史遺産を拡張する方法で歴史記憶遺産として登録することも可能ではないかとの問題提起がありました。
【川上詩朗 平頂山事件訴訟弁護団弁護士の報告】
次に,川上詩朗弁護士(日本)が,2016年6月29日から2017年6月12日までの約1年間,8回にわたり東京で開催した連続講座(撫順から未来を語る実行委員会主催)について報告しました。
川上氏は,日本が再び戦争への道を歩み始めたことへの懸念が広がる中で,改めて戦前と比較しながら今の時代を見直すために,「日本国憲法施行70周年 日本が再び『戦前』にならないために~平頂山事件に至る時代と今の時代を比較して」と題する連続講座を開催したことを報告しました。
【王建学 九一八歴史研究会会長の報告】
次に,王建学九一八歴史研究会会長(中国)が,今後の平頂山事件の歴史研究の在り方について報告しました。
王会長は,中国での虐殺事件である旅順・平頂山・南京の各事件について連携させながら比較研究すべきこと,ヨーロッパ等にも平頂山事件を知らせる取り組みを強化すべきこと,日中両国で研究機関として「平頂山惨案研究センター(仮称)」を設立すべきこと,平頂山事件解決のための日中両国の市民による共同行動について中国国内で知らせていくことが重要であることなど報告しました。
【井上久士 駿河台大学教授の報告】
次に,井上久士駿河台大学教授(日本)が,平頂山事件の加害兵士等の実態に関する歴史研究の成果を発表しました。
井上教授は,独立守備隊だけで平頂山の住民虐殺を行うことは不可能であること,独立守備隊の下で,憲兵隊,警察隊,防備隊,自衛団,青年団,撫順の学生などが組織され共同で実行したこと,それは組織的・計画的なものであったことなどを,当時の写真等を用いながら実証的に報告しました。
【丁美艶 撫順市社会科学院党史辦助理研究員の報告】
次に,丁美艶撫順市社会科学院党史辦助理研究員(中国)は,これまでの平頂山事件国際学術シンポジウムの内容等を分析した結果について報告しました。
丁氏は,これまでの平頂山事件国際学術シンポジウムの内容を,①平頂山事件の歴史的事実の研究,②平頂山事件訴訟の意義等の研究,③平頂山事件と他の事件との比較研究,④平頂山事件の解決方法等の研究,⑤平頂山事件の研究状況の分析,⑥平頂山事件の宣伝と教育の研究,⑦平頂山事件と抗日戦争の研究という7項目に分類しました。
また,シンポジウムの特徴として,①研究活動と,平頂山事件の法的・政治的解決に向けた実践的な取り組みが深く関わり合い,時代とともに課題が変化してきたこと,②研究内容の深化とともに研究範囲も拡大し,欧米での調査活動も加わってきたこと,③ベテランと若手の研究者が一緒に研究を進めてきたこと,④毎年中日双方の研究が継続することで日中間の交流の土台を作ってきたことを指摘しました。
そして,今後の課題として,①平頂山事件は中国での住民虐殺の始まりに位置づけられる事件であり,今後も歴史研究の進展が望まれること,②資料保全など平頂山事件の歴史研究の成果を確実なものとしながら,学術企画などをとおして研究成果への理解を更に広げること,③生存者がいなくなる中で,研究資料の保全が日中友好の礎になること,④国際学術シンポジウムが継続して行われてきたこと自体が歴史の一部であり,その成果を保存する必要があること,⑤日中共同研究の下で確認されてきた事実を次の世代に継承していくことなどをあげました。
次に,寇嘉慧撫順市社会科学院党史辨主任科員(中国)は,日本の中国侵略期における平頂山事件以外の撫順民衆に対する虐殺事件について報告しました。
寇氏は,10人以上が虐殺された20件の住民虐殺事件を対象に,虐殺の動機,手段,方法,場所等について分類して分析した上で,虐殺事件の特徴として,①日本軍の残虐性を示していること,②天皇の命令に従うという意識の下にあるため罪の意識がないこと,③明治維新以降形成されてきた中国人に対する差別的な見方が事件に現れていること,④虐殺の背景には日本軍内部における上官から下級兵士への虐待等により,下級兵士がストレスを抱えていたことがあるのではないか,ということなどが指摘されました。
そして,南京事件やルワンダの虐殺事件などをみると,住民虐殺事件は文明社会とのバランスが崩れたことの現れであり,それに対して国際社会(文明社会)から制裁が加えられてきたこと,日本の教科書検定における歴史修正に現れているように,虐殺事件を忘れることは過ちを再び繰り返すことになると述べました。
最後に,靖国神社問題や「慰安婦」問題などが問題となっているが,戦争責任を明らかにしてこそ未来を作ることができるのではないかということが強調されました。
次に,盖嵐嵐平頂山惨案紀念館宣教部主任(中国)は,中国国内における青少年への教育について報告しました。
盖氏は,平頂山惨案紀念館は1973年3月5日に開館してから,青少年に対する教育を重視してきたこと,教育の方法としては,青少年に対して,被害者本人の証言を聞かせること,虐殺現場での遺骨の発掘に参加させること,発掘労働に参加することで現場の迫力に圧倒され印象が強く残るなど遺骨の発掘労働が教育の一部であること,平頂山惨案紀念館や遺骨館を参観させることなどを行ってきたと説明しました。
また,青年の成長に応じて,例えば,清明節には学校から平頂山惨案紀念館まで歩いて訪問させたり,記念館のガイドを経験させるなど,教育を段階的に行っていることなどが報告されました。
そして,今後の課題として,日中両国が青年の教育について協力することの重要性が強調され,また,中国のみならずインドネシア等のアジアの虐殺やヨーロッパの虐殺等について展示会を企画してはどうか,という問題提起もなされました。
【姫田光義 中央大学名誉教授の報告】
最後の報告者として,姫田光義中央大学名誉教授(日本)が,「撫順の奇蹟」を世界記憶遺産登録するための取り組みについて報告しました。
姫田名誉教授は,撫順戦犯管理所における元日本兵に対する寛大な処遇により,元戦犯が「鬼から人間に」変わり,その元戦犯らは日本への帰国後,平和と日中友好のために献身して来たという歴史事実(撫順の奇蹟)は,正に「人類文明史上」唯一の輝かしい人間讃歌として記憶し後世に語り継ぐべき「記憶遺産」そのものであること,それは今日世界各地で頻発する戦争や紛争を防ぎ世界人類が平和に共生共存しうる道を示しているものであり,過去の暗い歴史を未来の明るい建設的な展望へと導く貴重で重要な資料として世界記憶遺産にふさわしいものであるとし,中国側に世界記憶遺産に向けて積極的に取り組むよう求めました。
【傅波 元撫順市人民代表会議副秘書長のまとめ】
以上の報告を受けて,最後に,元撫順市人民代表会議副秘書長の傅波氏(中国)から,それぞれの報告に対する簡潔なまとめの発言があり,その上で,今後の課題として,平頂山事件の歴史研究の成果とともに,平頂山事件の法的・政治的解決に向けた日中共同の一連の取り組みも含めて,その成果をいかにして継承していくか,とりわけ青年に対する継承の重要性についての指摘がありました。
【おわりに】
今回のシンポジウムでは,13年間にわたり毎年積み重ねてきた国際学術シンポジウムの成果を改めて確認することができました。
また,平頂山事件訴訟の原告を含む事件の幸存者が全て亡くなる中で,平頂山事件の教訓をいかにして継承するのかという課題に私たちが直面していることを改めて自覚させられました。
そしてそれは,平頂山事件の幸存者の解決要求の一つである「平頂山事件の悲劇を再び繰り返さないために、事実を究明し、その教訓を後世に伝えること」という要求を実現のための取り組みそのものであり,その要求実現の担い手は,私たち日中両国の市民であるとの思いを改めて強く抱きました。
以上
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